四国愛媛県新居浜市別子山。かつてここには海抜千メートル以上の山岳地帯に一万人以上の人々が暮らした鉱山都市があった。長い繁栄の時代が終わり鉱山は閉鎖された。ありふれた日常のひとこまが思い出となり、今は森林の奥深くに当時の栄華をしのばせる遺跡がひっそりと佇んでいるのみである。平成十九年十月六日から三日間別子銅山の遺構を訪ねる旅をした。
第三変電所
別子銅山は、元禄三年 (1690年) 坑夫の長兵衛が伊予の国の嶺南 (愛媛県新居浜市山間部) で銅の露頭を発見したことに端を発する。長兵衛は備中国にあった吉岡銅山の支配人田向重右衛門にこのことを知らせる。試掘したところ有望な鉱床があることが確認され翌年から採鉱が開始された。そして昭和四十八年 (1973年) に閉山するまでの二八三年の間に七十万トンの銅を産出し日本の貿易や近代化に寄与した。最初の採鉱は海抜千メートル以上の険しい山中で行われたが、時代と共にその中心は海側へ移り山の様相も変化していった。坑道は全長七百キロメートル。また最深部は海面下千メートルにもおよぶ。銅製錬時に排出される亜硫酸ガスにより樹木の多くが枯れてしまったが、現在は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻っている。
江戸時代から明治初期まではのみと槌を使い手作業で採鉱が行われた。明治二十八年 (1895年) にカンテラが導入されるまでは、さざえの殻に鯨油を入れ灯心を挿し火をつけた螺灯と呼ばれる灯が使用される。別子銅山では、焼鉱 (掘り出した鉱石を焼き硫黄成分を飛ばす工程。亜硫酸ガスが出る)、素吹、真吹 (焼鉱工程を経た鉱石を木炭の熱で鎔解して鉄などの不純物と徐々に分離する工程)までが行われた。これにより銅含有量八十パーセントの粗銅が作られた。粗銅は大阪に送られ南蛮吹きという手法で九十九パーセント以上の純度に精錬された。
粗銅は仲持と呼ばれる運搬人が険しい山道を尾根向こうまで運んだ。仲持は男が四十五キログラム、女が三十キログラムの荷物を背負っていた。
江戸幕府が倒れると、幕府との強い結び付きにより経営されていた別子銅山は維新政府に目をつけられる。大阪本店の銅蔵と長堀銅吹所閉鎖、土佐藩による別子銅山差し押えなどが行われた。時の支配人の廣瀬義右衛門 (のちに廣瀬宰平と改名。住友家初代総理事) は維新政府を説得しこの危機を乗り切った。以降別子銅山は近代化の道を歩み飛躍的な発展を遂げる。フランスから雇い入れた鉱山技士の設計による本格的な斜坑が完成した明治二十八年 (1895年) 別子山村の人口は一万二千人を数えた。ダイナマイト、蒸気巻き揚げ機、削岩機なども導入され産銅量も増加していった。
生産量の増加に伴い製錬所から出る亜硫酸ガスによる煙害が深刻な問題となる。空気中に放たれた二酸化硫黄は酸性雨をもたらし、山林の樹木稲作ほか農作物に大きな被害を与えた。支配人を引き継いだ伊庭貞剛 (のちの住友家第二代総理事) は明治三十八年 (1905年) 製錬所を新居浜沖約二十キロメートルにある四阪島へ移した。しかし被害は東予地方一円に広がりかえって深刻な事態になる。
自然災害もあった。明治三十二年 (1899年)、台風による豪雨で山津波が発生し五百人以上の死者を出す大惨事となった。煙害により山林の樹木が枯れ水源涵養機能が損なわれたことが被害を大きくした原因である。これにより旧別子地区 (嶺南) にあった施設は大きな被害を受け、採鉱本部以外のほとんどの施設、組織が銅山峰の嶺北へ移転する。大正五年 (1916年) に採鉱本部も撤退し江戸時代から続いた南側での採鉱は終焉を向かえる。
大正、昭和になるとより下部で採掘が行われるようになる。下部へ進むほど鉱量と鉱質が悪くなっていった。戦後は戦時中の乱掘により落ち込んだ生産量を回復するために、四億六千万円をかけて別子銅山復興起業が行われる。昭和三十年 (1955年) にこれが完了しほぼ太平洋戦争勃発前の水準に回復する。しかし地中深部に進むに従い地熱が上昇し作業環境が著しく悪化する。また地圧も大きくなり少しずつ蓄えられた歪みの応力により岩盤が飛び出し崩落することもあった (山ハネと呼ばれる) 昭和四十五年から閉山が真剣に検討され、昭和四十八年の筏津坑の終掘を持って二八三年間の別子銅山の歴史は幕を閉じる。
煙害については、昭和四年 (1929年) に硫黄分を硫酸に転化できる装置が導入され、七十パーセントの硫黄分を除去できるようになった。さらに昭和十四年 (1939年) には中和工場が作られ完全に脱硫できるようになり、ようやく問題が完全解決することになった。中和工場には莫大な費用が投じられた。この時期にそれだけの対策がなされたことは注目に値する。
別子銅山は愛媛県新居浜市南部に広がる西赤石山系の西の端に位置する。この辺りには日本を南北に分断する中央構造線が走っており、南側の三波川変成帯には多くの金属の鉱床があることが知られている。今回の旅では、露頭が発見され最初に採鉱が行われた旧別子地区、後に採鉱本部が置かれた東平地区、最後に採鉱本部が置かれた端出場の三つのエリアを歩いてみた。
赤石山系には宮尾登美子の小説『天涯の花』で有名なキレンゲショウマが自生している。山奥の山林に咲く花なので天涯の花。不思議なことにこの花の自生地が中央構造線に沿っている。ここ以外では紀伊半島、徳島の剣岳、九州で見ることができる。日本人が初めて学名を付けた植物。七月が見頃。
江戸時代から始まり大正五年に採鉱本部が嶺北の東平 (とうなる) に移るまでの間、銅山の中心となった地区である。赤石山系の南側に位置し県道47号線沿いと銅山越えの南側に産業遺跡や関連施設がある。ここでは東延斜坑など明治の近代化の歴史を辿ることができる。
赤石山系
筏津山荘のページより
山を登りながら森林の中に、最初に見付かった露頭、最初の坑口 (歓喜坑)、明治時代の小足谷接待館跡などの遺構を見ることができる。登山道はきれいに整備されていてかなり歩きやすい。急登も少ない。登山口から銅山越えまで行って降りて来るのに五、六時間もみれば十分。百年来の植林事業により森林は完全に回復しているが、その所々で林の中から凝った作りの洋風煉瓦壁などが顔を覗かせたりしている。新居浜市南高校の方々が作成したガイドブックが大変参考になる。これを見ながら遺跡を探すのもまた楽しい。
松山自動車道新居浜ICを降りて国道11号線を松山方面に 2.5 Km、別子山の標識に従い左折し県道47号線へ 20 Km (60分) ほど行くと別子ダムの辺りで旧別子銅山跡の標識が出ている。狭い峠道で対面走行なので注意。 愛媛県商工会連合会ウェブページの地図
宿は筏津山荘が便利。15分ほどで旧別子登山口まで行ける。川魚の料理が美味しかった。この辺りは希少変成岩のエクロジャイトが採れるため研究者も訪れる。初めて国内で天然ダイヤモンドを発見した水上先生も泊まったらしい。一泊二食付 6,600 円、弁当 630 円 (税込)
東平は銅山峰の北側 (海側)に位置する。大正五年に採鉱本部が旧別子から移転して来るとここが銅山の本拠地となった。かつては、旧別子地区で採掘された銅鉱石は粗銅にまで製錬され海側に運ばれていた。しかし明治三十二年の大水害により旧別子にあった高橋製錬所が壊滅的な被害を受けると、徐々に施設や組織が移転されていった。明治四十四年に第三通洞が開通し輸送経路が充実すると移転が加速した。
旧別子銅山登山口にある案内板
銅山越えの向こう側を下ると東平
別子銅山のあゆみによると、東平は、呉木、尾端、喜三谷、柳谷、辷坂、第三、一本松、東平などの総称で、採鉱課事務所、病院、学校、接待館、索道、電車駅、選鉱場、神社、寺、販売所、娯楽場、社宅などがあった。「山の町」といわれるほど賑やかだったとのこと。東平歴史資料館の周辺に多くの遺跡が残されているので手軽に散策できる。第三変電所と第三通洞を見る場合は登山道を四十分ほど歩く必要がある。
遠登志橋、坑水路会所、東端索道中継所は資料館から遠い。端出場付近からアクセスした方が良い。
新居浜市街地からの方が近い。松山自動車道新居浜ICを降りて国道11号線を松山方面に 2.5 Km、別子山の標識に従い左折し県道47号線へ 10 Km (15分) ほど行くと橋の手前で東平歴史資料館の標識が出ている。そこを曲がって山道をさらに十五分ほど走ると最初に自然の家がありその奥が資料館。
最後に採鉱本部が置かれたところ。海抜一五六メートルのところに作られ、最終的には全延長一万メートルにもなった第四通洞や旧端出場水力発電所を見ることができる。マイントピア別子という道の駅の周辺にいくつかの遺構が残っている。マイントピア別子では鉱山鉄道や観光坑道を見学できる。
松山自動車道新居浜ICを降りて国道11号線を松山方面に 2.5 Km、別子山の標識に従い左折し県道47号線へ10分ほど走るとマイントピア別子。
マイントピア別子アクセス情報
初日は旧別子へ行き銅山越えまで登って下山。東延は見ることができなかった。翌日は東平へ。上部鉄道を見ようと思ったので、東平歴史資料館も見ずにひたすら銅山峰を登ったが、道に迷ってしまい銅山峰の頂上まで出てしまう。どちらにしても上部鉄道は山小屋 (銅山峰ヒュッテ) 泊で丸一日覚悟しなければ見ることができない。疲れ果てて下山し駐車場に着いたのが午後六時。薄暗くなっていた。最終日は端出場で旧水力発電所を見て終わり。ここで紹介した以外にも数多くの史跡、産業遺跡があり三日間ではとてもたりない。
旧別子銅山地図 (最大化)
登山口から歩き始めて十分もすると圓通寺小足谷出張所跡があらわれる。林の中に石垣の跡と無縁仏や災害で亡くなられた方々を供養する墓石が残されている。御霊は県道47号線沿いにある南光院 (南光院本坊圓通寺) の境内に移されたとあるが、無縁仏を奉った石塔には新しい花が手向けられていた。
圓円通寺小足谷出張所跡
圓通寺出張所跡から歩いて行くとすぐに小足谷接待館跡があらわれる。明治初期に作られた接待館の跡。敷地内には立派な日本庭園もあったが、現在は赤い煉瓦の壁を残すのみ。鉱山近代化のために雇い入れたフランス人の鉱山技士ルイ・ラロックはここに滞在し「別子鉱山目論見書」作成した。ここには採鉱課長の邸宅もあった。
小足谷接待館跡
小足谷接待館跡から足谷川沿いにさらに登ると長い石垣があらわれる。明治六年 (1873年) に開校。海抜千メートルを越えるところにある小学校。当時の日本では最も高いところに作られた小学校。明治三十二年三月末時点で教員七人、生徒二九八人が在校していた。石垣の木々は別子銅山支配人だった伊庭貞剛の意志を継いで植林されたものとある。
小足谷小学校跡
「調べてみると、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、など様々な種類の木が植えられていることに気付く。この山にどの種類の木が根付くのかを知るための試行錯誤の結果である。寒冷地に自生するシラカバが植えられた場所もある。先人達の百年の月日を越える大変な努力の結果今のような緑を取り戻すことができた」新居浜市南高校のガイドブックより。
小学校に並んでお城のような石垣が百メートルも続く。明治二十二年 (1839年) に建てられた小足谷劇場の跡。千人以上の観客を収容できたという。毎年五月に行われる山神祭には京都や大阪から役者を呼び歌舞伎や芝居を上演させた。海抜千メートルを越えるところにこのような劇場があったというのは興味深い。
小足谷劇場跡
劇場からしばらく登ると足谷川を渡る橋がありさらに進むと水場がある。鉱脈を探す作業中に深さ八十メートルのところで地化水脈にあたり湧き出たものを今も残しているらしい。ボーリング時にダイヤモンドのロッドが折れ水脈の中に残こされていることからダイヤモンド水と呼ばれている。多くの登山者がここで休んでいた。コーヒを淹れたりそのまま手にすくって飲むなど。味はかなり硬い。
ダイヤモンド水
ダイヤモンド水から足谷川沿いに歩く。対岸には高橋精錬所跡の石垣や川岸に横たわるカラミ (粗銅製錬時の滓) を見ることができる。しばらく進むと分岐があらわれる。そのまま川沿いに進むと旧別子最大の集落目出度町経由、川を渡ると東延経由で銅山越えに至る。登りは東延経由で行くことにした。橋を渡り梯子を登る。しばらく行くと東延への分岐に着いたが、片道四十分の表示。今回はパス。東延は別子銅山近代化のシンボル。時間があれば訪れるべき。
東延との分岐から一時間半ぐらいで銅山越えに至る。樹木が低くなり遠くの山並みを眺めることができる。旧別子銅山に目をやると蘭塔場と呼ばれる墓所が見える。開坑から三年が過ぎた元禄七年 (1694年) 焼鉱窯の飛び火が乾燥した山の草木と家屋に燃え移り別子全山を焼く別子大火災が発生した。この火災により支配人の杉本助七を始め一三七人の方々が亡くなった。住友家は犠牲者の霊を弔うために旧別子が一望できる小高い岩山にこの墓所を築いたとある。インカの遺跡のような雰囲気。
蘭塔場
樹木が低くなり西赤石山と笹ケ峰の分岐に至る。銅山越えは西赤石山の方へ進む。分岐では晴れていたが銅山越えで雲に包まれた。ガスってなにも見えない。真っ白な中で昼食を食べた。この辺りはツガザクラの群生地。五月になると花を見に来る人で賑わうらしい。
西赤石山と笹ケ峰の分岐付近から
銅山越えから降りて笹ケ峰と標識が出ている方へ向かって歩くと目出度町へ延びる牛車道が見える。これはフランス人鉱山技士ルイ・ラロックの提案により作られた輸送路。明治九年 (1876年) 七月頃に開さくが開始されたが、明治十年に勃発した西南の役により労働者と火薬の確保が難しくなったことと技術力の限界により一時工事が中断された。明治十一年に工部省鉱山寮技士大島供清を雇い入れ開さくを再開。明治十三年十一月に銅山峰から石ケ山丈を経て立川中宿まで至る牛車道が完成した。この牛車道ができるまでは仲持が物資を運んでいた。
銅山越えは海抜千三百メートル。明治十五年にはこれより低い千百メートルのところでトンネルの開さくが開始される。初めてダイナマイトが使用され大幅に工期を短縮することができた。明治十九年 (1886年) に総延長一キロメートルの第一通洞が完成する。これにより銅山越えを経ることなく嶺北に物資を運ぶことができるようになった。以降、第三通洞 (明治三十五年)、第四通洞 (大正四年) とより標高が低い位置にトンネルが作られていく。
牛車道
どこで採掘し、製錬するのかというのは経営戦略上重要な問題である。採掘高度、輸送方法、公害などの条件を考慮しなければいけない。特に輸送方法は重要である。仲持による人手の運搬、そして牛車、通洞 (トンネル) まで、東人の新居浜生活の銅の道に輸送方法の歴史的変遷が詳しくまとめられている。
旧別子銅山登山口から四国中央市の方へ十キロメートル (十五分) ほど行くと別子観光センター。ここには別子銅山で最後まで採鉱が行われていた筏津坑や筏津山荘がある。かつて鉱山で働いていた人たちの社宅や倶楽部、娯楽場、住友病院の診療所、日用品配給所などが軒を連ねていたが、銅山閉鎖により廃墟になった。現在は整備されて敷地が遊歩道に、坑道が資料展示室になった。銅山越えから下山し筏津山荘に着くと三時頃。早い時間だったので周辺を散策した。
銅山川
赤石山系はエクロジャイトを産出することでも有名である。エクロジャイトは低温・高圧下で変成作用を受けた変成岩で赤石山系標高千メートルを越える山の地表に露出しているのは珍しいとのこと。主に柘榴石 (ガーネット) と輝石が含まれている。
筏津坑は明治十一年 (1878年) に開坑した。当時の坑口は銅山川の対岸にあった。現在残っている坑口は昭和十五年に開かれたもの。第二斜坑、探鉱通洞、第四通洞を経由でマイントピア別子がある端出場へ行くこともできたらしい。人々は入口の神棚に一礼し坑内へ入った。別子銅山の一番最後まで採掘が行われた場所。坑内は見学できるように整備されている。
筏津坑
東平歴史資料館はかっての東平の中心地にある。駐車場から階段を下りるとすぐに索道場 (さくどうば) 跡があり、さらに下りると銅山峰の登山口がある。二日目。天気が良いので銅山峰の上の方まで登ってみようと思った。
昔の東平
『Tomo'sホームページ』より
ここには貯鉱庫、選鉱場、索道基地があった。上部で採掘された鉱石はここに集められ索道で端出場に送られた。
索道場
二段の石垣のように見えるのは貯鉱庫。上段の方から鉱石を取り出して選別 (選鉱) し下段の貯鉱庫へ移した。それを索道で端出場に送っていたらしい。
上段貯鉱庫鉱石取り出し口
索道はスキーのリフトのようなもの。椅子の代わりに大きな容器 (搬器、パケットと呼ばれた) が付けられていた。それに鉱石を入れて下の端出場 (はでば) に送る。東平から端出場への一方通行なので動力を必要としない。重たい鉱石が索道を下っていく力を利用し端出場からは生活物資が送られた。東平から黒石への索道が出来たのが明治三十八年 (1905年)、端出場へルート変更したのが昭和十年 (1935年)。索道の長さは三五七五メートル、ポストは二十六基。搬器の間隔は七十五メートル、搬器のスピードは秒速二・五メートル、一日の鉱石搬出量九百トン。昭和四十三年 (1968年) の東平坑閉鎖に伴い廃止された。
索道基地
登山口からやぶの中へ入って少し登るとある。建物の前にあった橋が残されているのみ。看板がなければ何の跡なのかは分からない。明治四十五年 (1912年)に建てられた。収容人数二千人。東平坑が廃止される昭和四十三年まで使用。
娯楽場跡
当時の姿 (南高のページ)
娯楽場から一段登ると配給所と病院がある。配給所は明治三十九年 (1906年) に開設された。昭和三十三年 (1958年) に生協となる。ここでは生鮮食料品や生活雑貨が売られていた。東平で最も人通りが多かったところらしい。
配給所跡
東平の中心部から下りて行くと足谷川に行きあたる。川沿いに下ると東端索道中継所や坑水路会所といった魅力的な遺構があるはず。帰りに寄ることにして橋を渡り足谷川沿いに登山道を登る。三十分ほど歩くと突然開けた場所に出た。ここに第三社宅があった場所らしい。ふと上を向くと赤いレンガ作りの雰囲気のある建物があった。これが第三変電所か。明治三十七年 (1904年) 建設。ここより下流の遠登志にあった水力発電所から送られて来る三千三百ボルトの電気を三百五十ボルトに降圧するためのもの。昭和四十年まで使用されていたらしい。
第三変電所
建物として愛されていたから当時の姿のまま残されているのだろう。草むらをかき分けて近付くとなかを見ることができる。当然真っ暗。小心者なのですぐに出た。雰囲気のある古い建物や廃墟には惹かれるがなかに入るのは趣味ではない。
変電所内部
第三というのは第三通洞があるからついた名前。住宅十八戸と共同浴場があったらしい。昭和四十二年に撤去され今は松林になっている。石垣のところでまむしに遭遇した。良く見ると「まむしに注意」という看板が立っている。
第三社宅跡
第三変電所から広場を通り銅山峰の案内が出ている方へ進むと第三通洞がある。明治二十七年 (1894年) に開さくを開始して明治三十五年 (1902年) 貫通。東延斜坑底と東平坑がつながった。さらに明治四十四年には別子山村の日浦谷と東延斜坑底がつながり、別子山村と東平が全長四千メートルでつながった。通洞内はかご電車というものも走り、戦後しばらくの間まで新居浜側と別子山村を結ぶ唯一の交通手段として一般人も利用していた。
第三通洞
変電所の横の登山道を行くと上部鉄道経由。今回は第三通洞の横を通り広い登山道から登って行く。銅山峰まで一時間半との表示。昔の運搬道なのでところどころコンクリートで舗装されている。できるだけ道の端の柔らかいところを歩く。二十分ほど歩くと「柳谷経由」か「馬の背経由」の分岐。急登の「馬の背」を行く。名前から察するに一気に登ってあとはコルをのんびり歩くのだろうと思ったがなかなか傾斜はゆるくならない。疲れたので銅山峰ヒュッテで休憩しようと思ったが一向に着かない。一時間半ぐらい歩いてうんざりしかけた頃広い場所に出た。またしても「銅山越え」だ。今度は北側から登って来たことになる。しかも前日と同じで雲に包まれている。銅山峰ヒュッテをどこかで見落としたらしい。
せっかくだから銅山峰山頂まで歩いてみた。銅山越えから二十分ぐらい歩くと山頂。また真っ白の中で昼食を食べる。そろそろ下りようと思っていたらみるみる晴れて来た。新居浜の町を見下ろすことができた。
銅山峰山頂付近
銅山峰はツガザクラの群生地である「ツガザクラはツツジ科の高山植物で高さ10センチメートルほどの常緑低樹。開花の時期は5月上旬頃〜6月上旬頃。リンドウに似た釣り鐘で1センチメートル足らずの花をつける。ここが日本の南限」新居浜市南高校のガイドブックより。
山頂付近はススキや高山植物が生えていた。銅山峰は低い山だが、山頂付近は海側から冷たく湿った風が吹き抜けるため大きな樹木が育たないのだろう。青い花も咲いていた。これがりんどうか。
りんどうとツガザクラ
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが窓の外を指さして云いました (銀河鉄道の夜)
銅山峰から下りて銅山峰ヒュッテに立ち寄る。ここは角石原と呼ばれる。かつては牛車道の中継所があった。明治二十六年 (1886年) には別子鉱山鉄道上部線 (上部鉄道) の駅となる。旧別子地区で生産された粗銅は第一通洞を経由でここに運ばれ五キロの距離を上部鉄道で石ケ山丈まで運ばれた。石ケ山丈からは索道で端出場まで送られた。上部鉄道は明治四十四年に廃線となる。軌道の跡が登山道となっているので歩いてみた。崖沿いに敷かれた路線なので道が悪い。
二十分ほど歩くと千人塚というところに行き着く。別子山中で亡くなられた旅人や無縁仏が沢山埋葬されている。静かだ。地図を見ると石ケ山丈まではまだ相当ある。しかもこの先はさらに道が悪くなるらしい。引き返すことにした。次回は銅山峰ヒュッテに泊り、一日覚悟で歩こうと思う。
上部鉄道の名残 (赤いレンガが見える)
第三変電所まで下りて来た時にはふらふらになっていた。いろいろと歩いてまわったので結構疲れたようだ。さらに戻り足谷川を渡る橋の分岐に着いた。遠登志橋まで四十分とある。現在四時五十分。遠登志橋までは無理だが、東端索道中継所跡が中間点なので行ってみることにした。
しかし三十分歩いても着かない。もう暗くなってきたので引き返すことにした。中継所跡を見ることができなかった精神的ショックと肉体疲労のダブルパンチ。この登りはつらかった。駐車場に着いたころにはすっかり暗闇。二日目の探索が終わった。
渓谷側に見えた古い建物
明治二十六年に下部鉄道の始発駅が置かれた頃から別子銅山の重要な拠点として発展した。昭和五年には最後の採鉱本部が置かれた。現在はマイントピア別子があり観光坑道を見学したり復元された蒸気機関車 (電車) に乗ることができる。
昭和三十四年頃の端出場
『歓喜の鉱山』より
最終日は午前中だけなので旧端出場水力発電所を見学したのみ。明治四十五年 (1912年) 建設。五六九メートルの落差を利用して発電が行われ三千キロワットの出力があった。大正十二年 (1923年) に四阪島に電気を供給するため四千五百キロワットに増強。マイントピアの建物はこれを模した形になっている。
旧端出場水力発電所
新しい発見はなかった。つまり他人が見るところを見て同じように感動しただけである。ではつまらない体験だったのかと問われれば、すばらしい体験だったと答えるだろう。美しいから、珍しいから魅了されるのではない。そこに多くの人の生活があったことが自分を惹き付けるのだと思う。遺跡にたどり着けず、帰り道を疲れ果てて歩いたのも、今は楽しいことのように思える。またいつの日か訪れてみたい。